緩和ケアはどこで受けられる?
緩和ケア病棟に入院して緩和ケアを受ける
緩和ケア病棟に入院して緩和ケアを受ける
積極的ながん治療の継続が難しくなったときなど、緩和ケア病棟に入院して緩和ケアを受けることができます。病状が急に変化したときも、迅速な対応を受けることができます。緩和ケア病棟は人生の最期を迎えるだけではなく、希望される場合は自宅療養に向けての準備を整えて、在宅医療との連携を図る役割もあります。
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※日本ホスピス緩和ケア協会 緩和ケア病棟入院料届出受理施設一覧(PDF)へ移動します
家族ががんになったら知っておきたい緩和ケア
緩和ケア病棟は看取りだけではない
膵臓がんと診断された70代の女性。彼女はご主人を早くに亡くし、お子さま方も独立され、このため一人暮らしをされていました。今回緩和ケア病棟への入院を勧められたのですが、家に帰れなくなるのではという不安を持たれていました。
令和3年度厚生労働省委託事業
緩和ケア体験談 緩和ケア病棟での穏やかな日々
一杯のコーヒーで始まる緩和ケア病棟の朝
肺がん / 80代~ / 女性
(ご家族) もう15年ほど前の話です。母は7年闘病した肺がんが末期に差し掛かり「もう痛いのは嫌や」と3回目の手術をしない...
美味しくて、今日は食べ過ぎちゃった!
白血病 / 60代 / 女性
(ご家族) 先月亡くなった叔母は、白血病の薬の副作用で吐き気を催していたのを緩和ケアの先生にコントロールしてもらったら、...
緩和に入院した初日の義父のホッとした顔
肺がん / 80代~ / 男性
(ご家族) 夫婦で母親を癌で亡くし病院で何も出来ない後悔、自分達を責めていた私達。義父が肺癌末期の状態になり緩和ケアに入...
柔和に笑う祖父を見るのは久々だった
胃がん / 60代 / 男性
(ご家族) 私が中学生の頃、祖父が胃がんで入院した。 手術は成功かに思われた。が、程なく転移が判明し、リンパに転移してい...
在宅もいいですが、もっと多くのホスピスができれば
肺がん / 80代~ / 女性
(ご家族) 87歳の⺟は肺がんで、しかし治療を拒んでいたため、2年ほど経過観察が続きました。このまま、がん が治るのでは...
急遽運び込まれた病院で治療から緩和ケアへと連携して対応していただけたことは幸いであった
肺がん / 70代 / 男性
(ご遺族) 2015年初夏に肺がん末期で倒れた父は、なんどかの入退院を経て治療の後、晩秋に同病院の緩和ケアにお世話になり...
緩和ケア病棟で過ごした家族の時間
その他のがん / 50代 / 女性
(ご家族)母が3か月ほど緩和ケアを受けていました。緩和ケアがあってよかったと思ったのは、広い個室で家族一緒の時間を過ごせ...
がん治療ははじまった時から作戦会議が必要で、最後ではなく最初から緩和ケアが必要
すい臓がん / 60代 / 男性
(ご家族)亡き夫のことをおもう時おもい出すのは、必ず、抗がん剤(分子標的薬だった)を飲む時の苦しそうな顔だ。難度の高い手...
一杯のコーヒーで始まる緩和ケア病棟の朝
肺がん / 80代~ / 女性
(ご家族)
もう15年ほど前の話です。母は7年闘病した肺がんが末期に差し掛かり「もう痛いのは嫌や」と3回目の手術をしないと決めていました。当時私はニューヨークの大学で臨床心理の博士課程を取り、サイコロジストとしてキャリアをスタートしたばかりでした。もう母には辛い思いをして欲しくない、でも生きてほしいという自分自身のグリーフの中で葛藤している時、ふとインターンシップの病院先でホスピスでお父様を看取ったという医師のレクチャーを思い出しました。ホスピスは日本にもあるに違いないという藁をもすがる気持ちでオンラインで探したのです。いくつか候補を見つけ、在米の姉と実家の近くに住む兄とも相談し、早速兄が現地で動くこととなりました。
母が入所した「ホスピス」はホスピスとは呼ばれておらず、病院内に設置された緩和ケア病棟であることがわかりました。設立されたばかりかと思うほど、ま新しく、病院の一部であるとは思えないほど、ゆったりと落ち着いた時間が流れている場所でした。見舞いに行くと、母はいつも看護師さんたちとの心和むやりとりや、心遣いについて話してくれたものです。何より母が喜んでいたのは、毎朝コーヒーを入れてくださることでした。
母は大がつくほどのコーヒー好きで、家の台所の電子ポットのそばには、大好きなインスタントコーヒーの瓶がいつも置いてあったほどです。朝起きてまず一杯、朝の掃除や片付けが終わったらまた一杯、家族の食事や家事がひと段落しては一杯と味わうのでした。
緩和ケア病棟では、朝一番で看護師さんがコーヒーを入れてくれていたそうです。いつものインスタントコーヒーを母がいつも飲むように、クリーマーを一つ入れて。それはまるでお客さまに出すようなキレイなソーサー付きのコーヒーカップで運ばれてきます。母は「まるでお姫様みたいにあつこうてくれる」と嬉しそうに、気恥ずかしそうに話してくれるのでした。母はそうしたいつものコーヒーで始まる朝を10日ほど過ごして、安らかに旅立ちました。
たったの10日であっても、緩和ケアを受けることができたのは、奇跡的な偶然と、家族内の理解と連携があったからです。もし母が一番恐れていたのが痛みであるということを家族が知らなければ、もし私がインターンシップ先でホスピスの話を聞いていなければ、もし緩和ケア病棟が3ヶ月待ちであったならば、母は重篤な状態となって、病院で息を引き取っていたでしょう。
久しぶりにあの頃の記憶が蘇りました。
母を思い出しながら、今朝はコーヒーを入れてみようと思います。
美味しくて、今日は食べ過ぎちゃった!
白血病 / 60代 / 女性
(ご家族)
先月亡くなった叔母は、白血病の薬の副作用で吐き気を催していたのを緩和ケアの先生にコントロールしてもらったら、「ご飯が美味しい」と言って、亡くなるその日まで「食」を楽しむことが出来ました。食卓を皆で囲むという、がんの末期ではなかなか思うようにいかないことさえも叶いました。
食べられなくなって旅立つより、食べて笑って旅立てたことは本人は勿論、私を含め患者家族の心情に対しても有難かったです。
最期の頃、何度か聞いた叔母の「美味しくて、今日は食べ過ぎちゃった!」の明るい笑い声、忘れません。
緩和に入院した初日の義父のホッとした顔
肺がん / 80代~ / 男性
(ご家族)
夫婦で母親を癌で亡くし病院で何も出来ない後悔、自分達を責めていた私達。義父が肺癌末期の状態になり緩和ケアに入れてあげたいと気持ちは大きくなりましたが正直すごく悩みました。一番は金銭的理由です。ギリギリまで我慢して我が家にいてもらいました。最初に医師と話をした時義父は良くここまで頑張って来た事や家族の私達にも労いの言葉をいただきました。緊張がほどけましたね。
緩和に入院した初日の義父のホッとした顔、身体中謎の湿疹が酷くて眠れない日々で訪看さんに薬をもらってもあまり改善しなかったり息子(主人)がお風呂に入れていましたが病院で手足を伸ばして洗ってもらえてゆっくり湯船にまで入れてホントに気持ち良かった、謎の湿疹もすぐに改善。こちらが金銭的にも良かれと思っていた在宅介護が息子の家に来て申し訳ない。と余計ストレスだったのだと思いました。本当にホッとしたのでしょう。あの笑顔は緩和にいないと見られなかったです。
痛み止めの薬を入れてもらいぼんやりと話をしながら入院2週間で最後は皆に見守られ大好きな義母のいる天国へ向かいました。
緩和=人を穏やかにしてくれる場所でした。
義父を見送った事後悔はありません。
(企画担当者からのコメント)
ぼんやりしている、眠気が強いなどの場合は薬剤の調整でよくなることもあります。医療スタッフにご相談ください。
柔和に笑う祖父を見るのは久々だった
胃がん / 60代 / 男性
(ご家族)
私が中学生の頃、祖父が胃がんで入院した。
手術は成功かに思われた。が、程なく転移が判明し、リンパに転移している事が判明。
緩和ケアに入った。
祖母は毎日付き添い、週末に洗濯など持ち帰る日々になった。
入院前は荒れに荒れ、元々のお酒好きが更にお酒に溺れ、飲酒運転で単独事故を起こしたり、夜な夜な勝手に飲みに出たり、お神酒や料理酒にまで手を出し、揉め事ばかりだった。
入院してから必然的にアルコールと決別し、これまで働き詰めだった祖父母に図らずして夫婦水入らずの時間が出来た。これまでの空白を埋めるかのように他愛ない会話をし、2人の顔は実に穏やかだった。
そんな中、いよいよ最期が近いと連絡を受けた時、間の悪い事に私は修学旅行中だった。行くのを躊躇う私に「大丈夫だから、行ってきなさい」と背中を押してくれたのは祖母だった。後ろ髪を引かれる思いの中参加しつつがなく修学旅行を終え、祖父のお見舞いに行った。柔和に笑う祖父を見るのは久々だった。
その数日後、祖母の誕生日に祖父は静かに逝った。
まるで「自分を忘れるな」と言わんばかりの、実は寂しがりで小心者な祖父らしい最期だった。
棺に入った祖父の顔はとても穏やかで、祖母との時間を持てた事、そして何より医療従事者の皆様の昼夜問わず丁寧なケアの賜物だと、心から感謝の念に堪えない。
祖父母の時間を支えて下さり、ありがとうございました。
在宅もいいですが、もっと多くのホスピスができれば
肺がん / 80代~ / 女性
(ご家族)
87歳の⺟は肺がんで、しかし治療を拒んでいたため、2年ほど経過観察が続きました。このまま、がん が治るのではないかと、本⼈は思っていたようでしたが、残念ながら少しずつ肺ががんに蝕まれていま した。
⼀昨年の年末、一人で暮らせなくなったと電話がありました。⺟は 一人で⼀軒家に住んでいました。問題は、キッチンとリビングが2階にあることでした。階段の上り下りがとうとう出来なくなったのです。本当なら、最後まで⾃宅で過ごさせてあげたかったのですが、どう考えても、この間取りでは、どうしようもありませんでした。
もう⼀つの問題は、在宅介護の先⽣に、オムツの使⽤を承諾してくれなければ看られないと⾔われたことでした。私は仕⽅がないと思って聞いていましたが、⺟にとっては受け⼊れ難いことであったようで す。
この⼆つの問題を解決するために、⺟を私の家の近くのホスピスに⼊居させることにしました。4ヶ⽉後、⺟はここのホスピスで亡くなることになるのですが、⼈⽣の最後に本当に素晴らしいスタッフに恵まれて、不本意ではあったけれども、そこで看護師さんに尊厳を持って接していただきながら最後を迎えることができました。肺がんの末期は、ご存知のように呼吸困難があり、酸素や、モルヒネなど、ほぼ24時間体制で医療従事者の⽅にお世話になるため、⾃宅での介護はうちの場合は不可能でした。もちろん、私が頑張れば出来たかもしれません。しかし、私もがん患者で、体⼒的に⺟の希望を叶えるには私の⽅が参ってしまうと考えたからです。そういう様々な事情を汲んでくださり、なおかつ、かなり要望が多く正直少し認知症気味だった⺟に、ずっと寄り添ってくださったスタッフの⽅々には感謝の⾔葉しか、⾒つかりません。意識がなくなるまで、看護師さんにトイレに連れて⾏ってもらっていました。在宅だったら絶対に出来なかったことです。そして、最期まで⾃分でトイレに⾏けたことは、彼⼥にとっては何よりも⼤事なことだったと思います。最後意識がなくなった時も、「お⺟様の好きな飲み物はなんですか?お⼝を湿らせるのに、好きなものを飲ませて差し上げたいので。」と提案してくださいました。(それは 30代ぐらいの男性の看護師さんでした。)最期は⼤好きな濃茶を⼝に含んで亡くなりました。
最近、最期は⾃宅で、とよく⾔われていますが、本当にみんながそうなのでしょうか?確かに⾃宅で最期は望ましいことかもしれません。しかしながら、場所や家族の状況などを考えると、誰もが出来ることではありません。在宅介護⾄上主義にはならないようにお願いしたいです。私は⼀⼈娘で、⺟との関係は深かったですから、出来る限り願いを叶えてあげたかったですが、在宅介護だけは私が⾃滅するとはっきり思いました。⾃宅で看取ることはできませんでしたが、スタッフの⽅と相談して、⾃宅の様⼦を⽣配信するという⽇を作りました。看護師さんがつきっきりでiPadで⺟に動画を⾒せてくれました。私と孫が実家に⾏って、庭から家から、引き出しの中まで全て⾒せて、話をしながら持ってきて欲しいものがあったら持っていくという楽しいイベントになりました。コロナ禍もあり、⾯会もままならない時がありましたが、常に看護師さんが私たちの分まで⾒回って話を聞いてくださっていました。ホスピスという空間で、必要最低限の薬品で痛みをとっていただき、最期まで⾃分らしく過ごせた⺟は、幸せだったと思います。在宅もいいですが、もっと多くのホスピスができれば、もっと穏やかな最期を迎えられる⼈が増えるのではないかと思いペンを取りました。⼩さなエピソードは、いいことも悪いこともたくさんありましたが、書きけれません。⺟の最期の4ヶ⽉間は、かけがえのないものとなりました。緩和ケアは、⼼のケアだと思いました。スタッフの皆さん⼀⼈⼀⼈の優しい⼼遣いが、彼⼥の最期を彩ってくださいました。本当に⼼から感謝しています。
(企画担当者からのコメント)
緩和ケア病棟に入院できる期間は施設によって異なりますので、各施設にご相談ください。
急遽運び込まれた病院で治療から緩和ケアへと連携して対応していただけたことは幸いであった
肺がん / 70代 / 男性
(ご遺族)
2015年初夏に肺がん末期で倒れた父は、なんどかの入退院を経て治療の後、晩秋に同病院の緩和ケアにお世話になりました。父は会話も辛そうで、また、長らく疎遠にしていたという事情もあり、込み入った話がしづらい状況でしたが、相談員や看護師さんにはその時々のことだけでなく、亡くなったその先の手続きのことなど親身に相談にのっていただきました。闊達な看護師さん、朗らかな担当医の先生の存在にとても助けられました。ケア病棟に移って3日ほどで意識混濁となり、数日後に亡くなったので思いがけず短い期間でしたが、苦しむ様子もなく、看取りのプロの方々に見守っていただき、心強くいられました。
緩和ケア病棟といっても同室の方は食欲もおありのようで、皆さん様々だったと記憶しています。また、小さなキッチンもあったので、意識があるうちに何か温かい手料理をふるまえたら良かったと少しばかり悔やまれました。こぢんまりとした談話室や緑のある屋上庭園もあり、見舞う方も一般病棟の方と一緒になることもないので穏やかなひとときだったと思います。
父が亡くなって半年後ほどだったと思いますが、遺族の会のお知らせをいただきました。家族といっても父への想いは母、兄弟ともそれぞれであったので、特に伝えず単身で伺いましたが、悼む気持ちがまだふつふつと胸にある時にその気持ちを言葉にできたこと、久しぶりにお世話になったスタッフさんと思い出話ができたことはとてもありがたく思いました。思えば、偶然とはいえ、急遽運び込まれた病院で治療から緩和ケアへと連携して対応していただけたことはつくづくと幸いであったと感じています。地域の中核病院には小規模であっても緩和ケア病棟を設けていただけたらと思います。
緩和ケア病棟で過ごした家族の時間
その他のがん / 50代 / 女性
(ご家族)
母が3か月ほど緩和ケアを受けていました。
緩和ケアがあってよかったと思ったのは、広い個室で家族一緒の時間を過ごせたこと。特に父は母が緩和ケア病棟に入院してから亡くなるまで、ずっとその個室に泊まることが出来て夫婦の時間を過ごせたので良かったと思っています。
遠方の家族や母の知人がお見舞いに来ても、誰に気兼ねすることもなく母と話をすることが出来て幸せだったと思います。
また、ちょうど入院中に母の誕生日があり(還暦でした)、誕生日パーティーをさせてほしいと病院にお願いをしたところ、ホールを利用させていただくことが出来ました。飾り付けをして母の友人や家族にも参加してもらえて、記念写真を撮ったりして、良い思い出になりました。
(企画担当者からのコメント)
現在、新型コロナウィルス感染拡大をうけ、緩和ケア病棟でのご面会や夜間の付き添いについて制限を設けている場合があります。各施設により対応が異なりますので、各施設にご相談ください。
がん治療ははじまった時から作戦会議が必要で、最後ではなく最初から緩和ケアが必要
すい臓がん / 60代 / 男性
(ご家族)
亡き夫のことをおもう時おもい出すのは、必ず、抗がん剤(分子標的薬だった)を飲む時の苦しそうな顔だ。難度の高い手術(15時間要した)をセカンドオピニオンをうけて名医に執刀してもらい成功した時、私と彼は「助かる!」と希望をもった。しかし、末期がんでの治療だったため、手術をうけてもすぐに別の臓器への転移がみつかり、抗がん剤治療が必要となった。この治療になってから、すぐに様々な副作用がでて治療は思うように進まなくなっていった。頼りにしていた主治医は、最初は励ましやわらかい表情で温かい言葉をかけてくれたが、いつしか投げやりな態度になっていき、心細さは募るばかりストレスフルな治療へと変わっていった。
薬を飲む時、夫は、「もうどうでもよくなったなぁ~」と愚痴り、それでもしぶしぶ薬をかかさずに飲んでいた。吐き気や食欲減退はなかったが、倦怠感が大きく、足のむくみが激しく歩行困難となったが、体力をつけなければと自宅の階段を時間をかけて上り下りしていた。生きることをあきらめず、そのために抗がん剤が必要ならば、我慢強く飲み続けた……。
しかし遂に、その時がきた。呼吸困難となり緊急入院した際、夫が終末期にはいったことを主治医から知らされた。積極的治療はできず、緩和ケアにきりかえる。緩和ケアをどこでうけるかは自由に選択可能と。「助からない人より見込みのある患者さんを優先する」といわんばかりの態度で腹がたった。まるで人生の落伍者扱いされているようで、みじめで悲しく、悔しかった。助けてほしいと願っているのに、きちんと受診し薬をのみいうこときいて、きちんと支払いもしているので、まるで切り捨てられたように感じた。師走の木枯らしのふく時期で、まさに身も心も寒々だった。
もしもの時は、住み慣れた家で在宅診療をうけ、自分らしく最期をむかえると決めていたため、すぐに退院して在宅治療へときりかえた。するとすぐに、在宅診療(緩和ケア)医、看護師、薬剤師、ケアマネなどのスタッフが出入りするようになった。最初のうち、夫はまだ終末期だということを受け入れられず、「元気になったらまた抗がん剤を投与してくれ」といってドクター(在宅診療医)を困らせたこともあった。
退院してからは一人で入浴しトイレにいっていたのに、急な坂を転がり落ちるように、夫は普段できていたことができなくなっていった。そして、ある日の夜中、トイレにいった彼は、歩いて数歩の位置にある介護ベッドにたどり着けなくなってしまった。それ以降、ベッドで過ごすようになった。
毎日、交代で4人の看護師がきてくれてかいがいしく世話をし、世間話をした。大病院にはない和気藹々とした温かい診療をうけるうち、彼はある日、言った。
「抗がん剤やめてよかった・・・」と。
介助すれば歩けるようになり、食欲がもどり、笑顔がもどり一時的に持ち直した。
奇跡がおきるかもしれない・・・ふとそう思った。
人と話すことが好きな彼は、楽しそうに笑いたくさん話し、人間としての尊厳を取り戻したように思えた。
人の最後は、神様しかわからない。家族がどんなに奇跡を信じても、その時はやってきた。
在宅診療1か月経過し、69歳になったばかりの1月、午前中に看護師がやってきてケアをしてくれた後、眠くなったからひと眠りするよ、といった彼はそのまま目を覚ますことはなかった。脳血栓で意識がなくなり眠るように旅立った。
終末期と知らされても、そんなはずはない。強運の持ち主の彼はこれまで幾度も困難にうちかってきた。そう信じてきただけに、夢をみているようだった。ふと、在宅診療医(緩和ケア)の「もっと早い時期にかかわることができたらと思っています」という言葉を思い出した。
生まれ育った家で、妻である私にみとられ、地域の医療スタッフにあたたかく見守られ、尊厳を取り戻すことができたのが、誇り高い夫にとってせめてもの救いだったと信じている。眠るように一瞬で息を引き取ったのだから、きっと痛みなど感じなかっただろう。その点で、やはり幸運だったのではないだろうか。
がん治療ははじまった時から作戦会議が必要で、最後ではなく最初から緩和ケアが必要だと思っている。もちろんそれは、がんに特化せずがん以外の病気をわずらう患者さんや、彼らを介護する家族にとっても必要不可欠なものである。
2年半のがん闘病の末、最愛の夫がなくなり、丸3年がたった。二人三脚の闘病中は不安と恐怖に、夫を失ってからの3年は深い喪失感との闘いだったが、ようやく精神的に落ち着いてきたように思える。
彼を失ったばかりの頃は、別の病院にすればよかった、別の治療方法があったかもしれない、もっと優しく接してあげればよかった、もっと栄養価のたかいものを食べさせていればよかったなど後悔の念ばかりで自分をせめていた。
なかなか死をうけいれられなくて、彼がいた時と同じような日常をおくっていた。仏壇にお供えをし、一緒にご飯をたべ、写真にむかって話をし、誕生日を祝い、記念日に花を飾った。返事がないことに愕然とし、自分は何をやっているのだろう、頭がおかしくなったのかもしれない、と思ったこともしばしば。
親身に話をきいてくれる2人の姉が、「たくさん故人をしのんで、たくさん泣いて、それですべて大丈夫。何年かかったっていい、好きなだけ思えばいい」といわれて気持ち的に楽になった。何気ない他者の言葉が重く感じられることも多々あったが、姉たちの励ましの言葉が、私にとっての緩和ケアとなったことは間違いない。
令和3年度厚生労働省委託事業
あなたの意向を支える緩和ケア病棟
「あなたの意向を支える」緩和ケア病棟の紹介
あなたは、今どこでどのように過ごされていますか?
もし病気が進行し、体調が悪くなったとき、どこでどのように過ごしたいと考えていますか?
緩和ケア病棟ってどんなところでしょうか?初回面談では何を尋ねられるのでしょうか?
このビデオは選択肢の一つ、緩和ケア病棟とはどういったものかイメージできるよう作成いたしました。
私たちは、少しでもあなたがあなたらしく過ごすことができることを願っています。